RMS
Richard M. Stallman
- 1976年
-
Emacs を作る.
- 1984年
-
FSF を設立する.
- 1985年
-
GNU Project を始める.
- 1987-5-23
-
gcc 1.0 リリース.
Free as in Freedom - Richard Stallman's Crusade for Free Softwareって本が出版されるらしい.Online版
Richard Stallmanが語る“敵、戦い方、そしてオープンソース運動” (ZDNet 2002-12-09)
RMSのエッセイ集が10月に出版 (SlashdotJapan 2002-08-26)
Developer Spotlight: Richard Stallman (Builder AU 2004-07-21)
Interview with Richard Stallman (brunotorres.net 2004-11-03)
Freedom, Innovation, and Convenience: The RMS Interview (Linux DevCenter? 2004-12-22)
Interview: Richard Stallman (KernelTrap 2005-01-04)
ビル・ゲイツとその他の共産主義者たち (2005-02-16)
ソフトウェア特許について.
Patent absurdity (LXer 2005-06-21)
Old Folks (ZDNet オープンソース考現学 2005-11-30)
Richard Stallman、P2Pを語る (2006-02-13)
どっかの雑誌(日経系だったかな)のオープンソース説明記事の隅っこで見かけたが、RMSは、
「学校でWindowsの使い方を教えるなんてのは、学校で喫煙を教えるようなものだ。常習性の有るものをわざわざ教えてどうする?」
というようなことを言ったそうだ。(ある意味では)なるほど。
- それを言ったら、計算機科学だって、文学だって、哲学だって、常習性はありえ
ますです。(Windowsだって文学だって100%の生起確率で常習性を
持つわけではないですし。)
って、それだけだとただのチャチャなので
Gnu の誕生まで (Bit Emacs 解剖学草稿 96.10)
てっとりばやくRichard Stallman氏を理解するなら、これが一番分かりやすいんじゃないかと思います。 - ふじさわ
- ん?たかが道具(笑)であるソフト実装への常習性は、科学(人文科学含む)や芸術のそれとは、一緒にならんでしょう。
- 芸術を読者は選べます。いつでも自在に。つまり意思で自由になるものです。
- 科学は、もしそれが間違っていないなら、人間は「原理的」にそれを拒めません。
こちらは逆に意思は介在できませんが、誰にとっても元々介在させられない仕方ないものです。
- あまり一生懸命論争するつもりも余裕もないですが、まあやってみます。 - ふじさわ
- 挙げられた2つの例から「たかが道具(笑)であるソフト実装への常習性は、科学(人文科学含む)や芸術のそれとは、一緒にならん」という結論に至る理由が分からないので、もしよければもうちょっと詳しくお願いします。
- 「芸術を読者は選べる」とおっしゃるからには、ここでの「芸術」は文章を仮定しているのですよね。ふむ、たしかに人間は読みたい文章を(ある程度)選ぶことができます。しかし、『一般に「人間」は自分の「意思」で「芸術」を「コントロール」できる』と、本当に言えるのでしょうか。あるいは、「意思で自由になる」とは意思で自由に何ができるとおっしゃってますか? いろいろあいまいな点を残して論争をしても実のある結果が出ないように思うので、ちょっとずつでも明確化したく。ただ、すでにちょっと論点がずれちゃってますかね。どうしてもこういうレイヤが気になる人なので。こういう話題を論点にしたくないなら早めに言ってください。
- あと、「人間は「原理的」にそれ(編注:科学)を拒めません」なんですが、これは具体的に、何を意味しているのでしょうか。何となくは分かるのですが、論点が合っていないような気もしないでもないので、確認まで。ここでおっしゃっている「科学」とは「自然の法則」の意味で使われているのでしょうか。また、「拒む」というのはどういうことでしょうか。たとえばニュートンは万有引力の法則を唱えて、それまでの「科学」を否定、あるいは改善(「善」とは何か、という議論もありますが)しました。これはある意味拒んだことになると思うのですが、この認識についてはどうでしょうか。あるいは、この例について、「ニュートンはそれまでの間違った科学を拒んで、正しい科学を選択した。つまり正しい科学を拒めなかった」という人がいるかもしれません。しかし、後にニュートン科学もアインシュタインによって否定または改善されています。だったらニュートンの見付けたものは何だったのかと。また、否定/改善したものは何だったのかと。(うーむ、我ながら実のある議論になっていないというか、するつもりが感じられないというか、たぶんこのまま続けても無駄に時間を費すだけというか。カントを語るときの論点だもんな。お互いのバックグラウンドが分からない状態で議論をするというのは、手法として有効性が確認されているんだろうか。ふとそういうことも疑問になります。)あるいは、文脈からは「自然の法則」という意味で「科学」という言葉を使われているようにも思れますので、もしそうでしたら(あるいは、別の前提条件が必要な場合、)論点を改めます。
- まあ、そういう低位レイヤの認識を一致できたとして(もしくは、これかららできるだけ一致させていくとして)、よく分からないのが、「意思で自由になる(ふじさわによる補足編集:)芸術」と「人間は「原理的」にそれを拒め(ふじさわによる補足編集:)ない科学」とを同列に挙げられて、(少なくとも)その2つに対する常習性が「たかが道具(笑)であるソフト実装」に対する常習性と一緒に扱えないというのはどういうことを意味されているのでしょうか? 芸術と科学を挙げられた2つの節から、「意思の介在」を論点にされているように思いますが、意思の介在という観点で要約すると、「意思で自由になる芸術」(注:ふじさわによる意訳)と「意思では自由にならない科学」(注:ふじさわによる意訳)は「Xであるソフト実装」とは、常習性という観点では同一のレイヤで議論できないとおっしゃってますよね? だとしたらXには何が入るのでしょうか。うーむ。
- ちなみに、科学も芸術も「たかが道具」に一般化しても破綻がないのではないかと、
ふじさわ は考えています。
- 最初は自らを利する(楽しむとか)つもりで始めたのに、やがて苦しくても自由意志で逃れられなくなるわけでしょ。
プロプラソフトを喫煙に喩えるのはなかなか旨いと思うがなあ。
日本語で似た表現を探すならば「酒に飲まれてる」状態かな。
- 芸術の常習なら、あくまで読者は楽しみ続けています。あれは「依存性(WHO用語の)」とは呼ばないでしょ。
ほんとに嫌いになったら次の瞬間に読むのを止められる。
- ところが道具は道具であるがゆえに、後から手放せないという事態が生じる。ここが困るわけで。
- なんか粘着だなぁと自分で思いつつ。「道具は道具であるがゆえに、後から手放せないという事態が生じる。ここが困る」とおっしゃっていますが、字義どおり受け取ると、それはプロプラに限らずオープンソースにもいえることすよね。ということは、「プロプラソフトを喫煙に喩えるのはなかなか旨い」は「真」でしょうか。「ソフトを喫煙に喩えるのはなかなか旨い」とはいえるかもしれません。じゃあRMS氏は何が言いたかったのか。いや、まずは一次情報源(もしくはできるだけ近いところ)を当たりたいです。 - ふじさわ
- "FREE SOFTなら自分にとって無益/有害な点を自分で自由に(自由な範囲&タイミングで)直せる"
ということでは?
- gnu_rmsは別に驚くに値しないです。知識としても思考としても。
ビジネス者は「技術は商売から独立できない「弟」である」と言いたいんだろうけど、
それは少なくともソフトに限っては必ずしも真じゃないのが証明されてるんで、悪しからず。
- つまりその文は、RMSの「(ある意味で)一面的な解釈」でもありそうです。
RMSはMD録音機の寄贈を断ったことが有るそうだが、
では、たとえばプロプラなソフトウェアが内蔵された電話機(携帯含む)は決して使わない、
のだろうか?
(最終更新 Wed May 16 16:33:38 2007)